九州総合■怪談・怪奇スポット
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#85 [神楽◆8NBuQ4l6uQ]
B【福岡 米一丸@〜B】
―供養塔と踏切―
>>83-85その後、里人は彼らを哀れんで、鎌倉時代末期、高さ四メートルの石造りの供養塔を建て、さらに供養塔を囲むように地蔵堂を建立し、奥方と米一丸の親子地蔵二尊を刻み、崇めるようになった。
現在、この供養塔は県指定文化財となっており、毎年八月には、地元の方々が中心となり、手厚く供養されているという。
さて、この米一丸供養塔の近くに踏切があるのだが…
見通しが良いのにも関わらず、事故が多発しているという。
また自殺が多いというので、今や心霊スポットとして有名になっている。
米一丸の祟り…とも噂されるが、無関係だと思いたい。
死して尚、怨みや悲しみの中にいるのでは、救われないではないか…。
米一丸と八千代、米一丸の母が、安らかに眠れることを願わずにはいられない。
:09/02/18 11:13
:W51S
:WGCtJ1hY
#86 [大分県民]
【大分県 林檎の木】
道路の真ん中に一本だけ立っている林檎の木がある。その先は行き止まりになっている。
何故ならその木だけ切ることが出来ないからだ。
そこは昔、林檎農園だった。道路が作られることになったので、林檎の木を斬り倒すことになった。
だが一本だけ切れない木があり、結局別の場所に道路ができ、今ではほとんどそこを通る人はいない。
:09/02/19 05:37
:P906i
:5TnFVWAk
#87 [大分県民]
>>86続き
木を切ろうとすると事故が起こり人が死ぬ。よくある怪談で、心霊スポットになっている。
そこに免許をとったばかりの友人の男四人がドライブがてら肝試しに行った。
いよいよ林檎の木が近くなってきたところで、怖くなってきた四人は、明るい話題ばかり話しはじめた。
:09/02/19 05:42
:P906i
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#88 [大分県民]
>>87続き
ちょうど話しのオチの部分、みんなが笑うタイミングで、車内に女の笑い声が響いた。
車にいるのは男四人。友人らはあまりの恐怖に、林檎の木を見ることなく引き返した。
観光スポットになっている湖の近くにある場所なので、新道と間違えて迷い込んでしまう人達が多いと聞く。
:09/02/19 05:46
:P906i
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#89 [匿名]
熊本県 田原坂
田原坂から下る時みんなでカーブミラーの数をそれぞれ口に出さず数えたら数が合わないらしい
自分も何回かして合わなかったけどただのミスと思いたい^^
:09/02/19 06:19
:W54SA
:4CsACN8w
#90 [神楽◆8NBuQ4l6uQ]
>>86-88 大分県民さんへ
林檎の木…怖いですね!
一体何故その林檎の木だけが切れなかったのか…非常に気になります。
>>89 匿名さんへ
田原坂の話は色々読みましたが、その話は初めて聞きました!
一度ならともかく、何回かして…というのが、かなり怖いですね(泣)
:09/02/19 10:38
:W51S
:tc1J2uhY
#91 [神楽◆8NBuQ4l6uQ]
【佐賀県 イノチャン】
佐賀の山中に、廃墟となった、通称・イノチャン山荘と呼ばれる場所がある。
佐賀で一番有名な心霊スポットと言っても過言ではない。
ここにまつわる霊体験談は後を絶たないというほど。
元々は旅館だったのだが、数十年前、近辺の病院施設から脱走した患者が、旅館にいた人間を殺害し、風呂場で切断したという噂が、まことしやかに囁かれている。
何故、イノチャンと呼ばれるかは、その脱走患者のあだ名がイノチャンだった…とか、殺害された旅館の従業員の名前が井上だった…など諸説ある。
そして、殺された怨霊が、浮かばれぬままさまよい続けているとか…。
これらの話は、全くのデマで、都市伝説に過ぎないという意見もあるが、では、この話が何故ここまで大きくなり、一体誰が作った話なのか?
それもまた不明である。
…余談で、稲川淳二の『解明・恐怖の現場 Vol.2』の第2話で語られている「佐賀の神崎にあるI山荘…」というのは、このイノチャン山荘のようだ。
:09/02/19 10:58
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#92 [神楽◆8NBuQ4l6uQ]
【長崎県 西彼杵郡 つがねの滝】
隣町の外海町は、禁教時代、多くの隠れキリシタンの潜伏地であった。
多くのキリシタンが、難を逃れようと、水のあるつがねの滝に身を潜めようと山に登ったが、山狩りでほとんどのキリシタンが惨殺処刑されたという。
それ故に、つがねの滝はそうした多くのキリシタンの無念の霊が集まり、呻き声が聞こえてくるのだとか…。
悲しい歴史が生んだ、心霊スポットである。
:09/02/19 11:06
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#93 [神楽◆8NBuQ4l6uQ]
@【福岡 お綱門@〜A】
>>93-94鴻臚館跡から、福岡城二の丸に入るところに、昔、お綱門と呼ばれた門があった。
柱に触れただけで、熱病に冒されたり、夜中うなされたりするというお綱門には、恐ろしくも哀れな話が語り継がれている。
時代は寛永の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之は、参勤交代の帰りに、大阪に遊びで立ち寄り、采女(うねめ)という芸者を連れ帰った。
しかし、家老にいさめられ、黒田はお側役の浅野四郎左衛門に下げ渡すことにした。
浅野には、お綱という妻と幼い子供が2人いたが、采女にすっかり心を奪われた浅野は、妻子を顧みることがなくなっていった。
あろうことか、大名町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子供達を箱崎の下屋敷に別居させ、次第に仕送りも途切れた。
貧しい暮らしにやきもきしていたお綱は、せめて4歳の娘のひな祭りに、何かしてやりたいと、本宅に下男を送った。
ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い帰され、下男はお綱に申し訳ないと、箱崎松原で自害する。
:09/02/19 11:10
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#94 [神楽◆8NBuQ4l6uQ]
A【福岡 お綱門@〜A】
>>93-94これを知ったお綱は、狂乱した。
2人の愛する我が子を殺害し、その首を腰に下げて、薙刀を携え、浅野家を襲おうとした。
しかし、夫である浅野は、登城のため不在の上に、屋敷にいた狼人・明石彦五郎に返り討ちにあい、切り伏せられてしまった。
それでもせめて一太刀と、お綱は髪をふり乱し、血に染まる体を薙刀で支えながら、夫のいるお城へと向かう。
この時、子供の首を腰から下げてお綱が、城へと歩いた道には、長いこと草木が生えなかったともいう。
ようやくの思いで、門へたどり着くと同時に、お綱は門に手を掛けたまま息絶えた。
浅野は、お綱が死んだ翌日から、原因不明の熱病に掛かり、お綱の命日が寛永7年3月3日であるが、その約1年後の、寛永8年2月19日に、浅野四郎左衛門は亡くなった。
以後、その門はお綱門と呼ばれ、様々な祟りが噂され、後に長宮院に移されたのだが、福岡大空襲で消失してしまった。
その跡地は、現在、家庭裁判所となっているが、慰霊碑が立てられており、今でも線香があげられている。
:09/02/19 11:10
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