@【福岡 お綱門@〜A】
>>93-94鴻臚館跡から、福岡城二の丸に入るところに、昔、お綱門と呼ばれた門があった。
柱に触れただけで、熱病に冒されたり、夜中うなされたりするというお綱門には、恐ろしくも哀れな話が語り継がれている。
時代は寛永の頃、福岡藩二代藩主・黒田忠之は、参勤交代の帰りに、大阪に遊びで立ち寄り、采女(うねめ)という芸者を連れ帰った。
しかし、家老にいさめられ、黒田はお側役の浅野四郎左衛門に下げ渡すことにした。
浅野には、お綱という妻と幼い子供が2人いたが、采女にすっかり心を奪われた浅野は、妻子を顧みることがなくなっていった。
あろうことか、大名町の本宅に采女を住まわせ、お綱と子供達を箱崎の下屋敷に別居させ、次第に仕送りも途切れた。
貧しい暮らしにやきもきしていたお綱は、せめて4歳の娘のひな祭りに、何かしてやりたいと、本宅に下男を送った。
ところが、出てきた采女にけんもほろろに追い帰され、下男はお綱に申し訳ないと、箱崎松原で自害する。
A【福岡 お綱門@〜A】
>>93-94これを知ったお綱は、狂乱した。
2人の愛する我が子を殺害し、その首を腰に下げて、薙刀を携え、浅野家を襲おうとした。
しかし、夫である浅野は、登城のため不在の上に、屋敷にいた狼人・明石彦五郎に返り討ちにあい、切り伏せられてしまった。
それでもせめて一太刀と、お綱は髪をふり乱し、血に染まる体を薙刀で支えながら、夫のいるお城へと向かう。
この時、子供の首を腰から下げてお綱が、城へと歩いた道には、長いこと草木が生えなかったともいう。
ようやくの思いで、門へたどり着くと同時に、お綱は門に手を掛けたまま息絶えた。
浅野は、お綱が死んだ翌日から、原因不明の熱病に掛かり、お綱の命日が寛永7年3月3日であるが、その約1年後の、寛永8年2月19日に、浅野四郎左衛門は亡くなった。
以後、その門はお綱門と呼ばれ、様々な祟りが噂され、後に長宮院に移されたのだが、福岡大空襲で消失してしまった。
その跡地は、現在、家庭裁判所となっているが、慰霊碑が立てられており、今でも線香があげられている。