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#47 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
現象と「物自体」

対象はあくまで感性によって得られたデータを素材として認識される。

言い換えると、感性によって得られないものを認識することは不可能だ。つまり感性は、現象としての対象を認識するには適しているが、「物自体」を認識することには役立たない。

物自体に帰せられるような性質は、感性によっては決して我々に与えられ得ない。

物自体は確かに存在する。しかし人間に備わっている感性によっては捉えられない。なぜなら感性は時間と空間によって限定されているからだ。そうカントは主張する。

物自体=あるけど感性で捉えられないものとしておけばOKだ。
 

⏰:15/05/05 21:56 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#48 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
(2)悟性=概念を把握する能力

しかし感性だけでは対象を認識するには至らない。感性はまとまりのないデータをバラバラに取得するだけなので、それらをギュッと束ねて総合する(結合する)必要があるからだ。その作業を行うのが、概念把握のための能力、すなわち

悟性だ。

対象は悟性(Verstand)によって考えられる、そして悟性から概念(Begriff)が生じるのである。

結合は表象能力の自発性の作用だからである。この自発性は、感性から区別せられるために、悟性と呼ばれねばならない。

我々はこのような悟性作用に、綜合という一般的な名称を与えようと思う。
 

⏰:15/05/05 21:57 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#49 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
悟性には、感性と同様に形式がある。それがカテゴリー(純粋悟性概念)だ。

カテゴリーとは、感性によって与えられた直観をまとめ上げる、悟性の枠組みのことを指す。私たちはその枠組みを使って、対象を認識するのであり、この形式を通さなければ何も認識の対象とはなりえない。

ただし悟性はそれ自身独自の能力であり、感性や理性と上手くかみ合わない場合がある。

悟性は感性が与えてくる直観をもとに対象を認識する能力である。しかし、悟性はカテゴリーにしたがって独自に働いてしまう本性をもっている。

逸脱した悟性から私たちが得られるのは、単なる「仮象」だ。とはいえこの仮象は人間にとっては避けがたい。なぜならこれは理性の本性にもとづく錯覚だからだ。
 

⏰:15/05/05 21:58 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#50 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
(3)理性=完全なものを構想する能力

カントは「理性」の本質を次のように規定する。

理性とは、原理から出発して、完全なもの(全体的なもの)を見いだそうとする認識能力のことを指す。

たとえば「宇宙はいつ始まったのか?宇宙の果てはあるのか?」など、全体性をめがける問いは理性から発せられる。

感性が時間と空間によって、悟性がカテゴリーによってそれぞれ規定されているように、理性もある枠組みによって規定されている。その枠組みをここでは「理念」と呼ぼう。これは経験に先立って理性を規定するものなので、「先験的理念」と呼ぶことができる。
 

⏰:15/05/05 22:00 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#51 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
先験的理念には3つのものがある。主観(=私)の完全性、世界の完全性、「神」の完全性の3つがそれだ。

先験的理念は超越的であって一切の経験の限界を超出する、それだからこれらの理念に完全に合致するような対象は、経験においては決して現われ得ないのである。

私たちの意識経験が到達できる領域を“超え出て”しまっていること、これがカントのいう「超越的」の意味だ。

しかし私たちは悟性の生み出す仮象に欺かれて、理念があたかも実際の世界に適用可能だと考えてしまう。その結果、悟性はカテゴリーをエイヤエイヤと振り回し、経験可能な領域を超えてしまう。

たとえば理性は、世界は完全であるという理念をもつ。悟性は経験認識によって、その理念の正しさを証明しようとする。しかしこれは“原理的に”不可能な試みだ。

このことを証明しているのが、理性のアンチノミー(二律背反)だ。
 

⏰:15/05/05 22:01 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#52 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
アンチノミー

アンチノミーとは、ある命題とそれに反する命題が互角に成立してしまうために、どちらの命題が真であるとも決定できない状態のことを指している。

カントが示したアンチノミーは4つある。
(1)世界の空間的・時間的始まりについて
(2)世界の最小単位について
(3)自由について
(4)神について

ここでは最初の第一アンチノミーについて見てゆこう。これは宇宙の全体を捉えきることの不可能性を“論証”している有名な箇所だ。

正命題 世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。

反命題 世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。

世界に始まりはあるか?また終わりはあるか?これがここでの問題だ。
 

⏰:15/05/05 22:03 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#53 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
一見、どちらが正しい命題であるかを判断するのは難しいが、カントはそれらはともに等しい妥当性をもつという。つまり世界に始まりと終わりがあるという命題と、始まりも終わりもないという命題は互角に成立してしまうため、世界に始まりと終わりのどちらがあるのかを判断することはできない、とカントは論じる。

ここでのカントの証明法は独特のものだ。数学の背理法を掛け合わせている、というイメージで考えると何となく分かりやすいかもしれない。

初めに正命題(始まりと限界がある)を証明する。
 

⏰:15/05/05 22:04 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#54 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
仮に、世界が時間的な始まりをもたないとしてみよう。そのことは世界の開始点を決定することができず、無限に遡れることを意味する。

どこから来て、どこへ行くのか…

であれば、今この時点に到達するためには、無限に連なる世界の状態の系列が過ぎ去ってしまっているのでなければならない(いまの状態の以前、その以前、またその以前…)。しかし無限の系列が過ぎ去ってしまうということは、論理的に不可能だ。なぜなら過ぎ去ることができるなら無限とはいえないから。それゆえ世界には始まりがなければならない。同様に、世界を全体的なものとして捉えるためには、世界のプロセスが完結してしまっているのでなければならない。それゆえ世界は限界をもたなければならない。

以上が正命題だ。次に反命題(始まりと限界がない)を証明する。 

⏰:15/05/05 22:05 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#55 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
仮に、世界が時間的な始まりをもつとしてみよう。そうすると、世界が始まる以前には、何も存在していなかった空虚な時間があったはずだ。しかし無から世界が生じるはずはないから、世界が時間的な始まりをもつことはありえない。次に、世界に限界があるとしてみよう。この場合、世界はその外側の「空虚」によって限界づけられることになる。しかし空虚が何かを限界づけるなどということはありえないから、世界が限界をもつことはできない。

以上が反命題だ。このように、「世界には始まりがあり、限界がある」という命題と、「世界には始まりがなく、限界がない」という命題は、どちらも等しく成立する。したがって世界の始まりと限界を決定することは、原理的に不可能だ。
 

⏰:15/05/05 22:06 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#56 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
ビッグバンが宇宙の始まりなのでは?

こう聞くと「宇宙の始まりはビッグバンなのでは?」と思うひともいるはずだ(私も初めて読んだときにそう思った)。しかしビッグバン以前には、それを引き起こした原因があるはずだし、その原因についても原因があるはずだ…というように無限に続けることができる。

ウィキペディアの記事によると、現在の宇宙物理学でもビッグバン以前の状態に関する広い合意は成立していないらしい(専門ではないのでよく分からない)。

しかし、いかに科学が進歩しようとも、宇宙の絶対的な起源を発見することはできず、仮説の域を超えることはできない。これはカントがすでに証明してくれている。そうした起源を発見することは、私たちの認識構造ゆえに原理的に不可能なのだ。

経験認識がどれだけ深まっても、世界の完全性(世界の始まりは何か?終わりは何か?)については答えを与えることができない。それはそもそも絶対的な答えを持たない問いである。カントが言おうとしているのはそういうことだ。 

⏰:15/05/05 22:08 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


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