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#57 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
正命題と反命題、どちらを選ぶ?

以上、カントの第一アンチノミーについて確認したが、面白いのは、カントが正命題と反命題のどちらを選択するかの動機についても考えていることだ。カントは次のように言う。

正命題と反命題の対立を放置しておくことは、理性それ自体に対する信頼が打ち砕かれることにつながりかねない。とはいえ、両者に「対立を止めよ!」と説いてもあまり意味はない。この対立には必然性があるからだ。

そこで、ここではひとが正命題と反命題のどちらかを選ぶ動機について考えてみよう。そうすれば、この対立の内実をよりよく知ることができるはずだ。
 

⏰:15/05/05 22:09 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#58 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
正命題を選ぶひとは、世界の全体像を独断的に示そうとする傾向がある。また、正命題は通俗性をそなえているため、一般の人びとに理解されやすい。全体像を捉えられることの安心感も与えてくれる。

対して、反命題を選ぶひとは、世界の全体像を捉えることに対して否定的だ。また、反命題は正命題に対するアンチの立場を取る傾向にある。なので正命題よりも不人気だ。とはいえ反命題は、みずから独断的にならなければ(つまり、正命題の立場は間違っていると独断的に否定しなければ)、悟性にとってよい規準となる。

「世界の全体はこうなっている」とドンと示されると、いいね!と賛同する人もいれば、そんなの分かりっこない!とシニカルな態度を取るひともいる。正命題と反命題は、たとえ同じ妥当性を持っていても、どちらを選ぶかについては心理的な要因が大きく影響している。このカントの分析はなかなか鋭く、面白い。
 

⏰:15/05/05 22:10 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#59 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
認識の問題から道徳の問題へ

カントはアンチノミーによって、世界全体を捉えようとする試みは、形而上学に陥ってしまわざるをえないことを示した。カントは、理性が本当に向かうべきは、世界の全体を知ろうと試みることではなく、道徳の本質を規定することにあると考える。哲学の問いを「世界が何であるか」から「私たちにとって道徳とは何か」へと移行させたのだ。

カントはこの問題について、本書の次の主著『実践理性批判』で本格的に取り組んでいる。しかし本書ですでにこの点に触れているので、ここでも確認しておくことにしよう。

カントにいわせると、道徳の問いにおいては、人間の自由が重要な鍵となる。
 

⏰:15/05/05 22:11 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#60 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
カントいわく、人間の理性は自然の秩序とは異なる独自性をもつ。理性は思弁的(形式的・論理的思考を行う)側面をもつと同時に、実践的(道徳的)側面もまた備える。後者の側面に着目すると、理性はそれ自身が行為の原因としての役割を果たすものであり、これに自然の物理法則をそのまま適用することができないことが明らかとなる。

我々が、この同じ行為を理性に関して考察するならば、 と言っても、行為をその由ってきたる根原から説明するために思弁的理性に開して考察するのではなくて、〔実践)理性がみずから行為を産出する原因である限りにおいてのみ、かかる理性に関して考察するわけであるが、 約言すれば、我々がこの行為を実践的意味における理性と比較するならば、我々はここに自然秩序とはまったく類を異にする規則と秩序とを見出すのである。

人間は確かに一方では自然法則に従う存在である。しかしそれだけにとどまらない。人間は同時に、理性による自由をもつ存在でもある。そうカントは言うわけだ。
 

⏰:15/05/05 22:13 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#61 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
カントは、自然法則によって規定されず、ただ理性の自由によってのみ規定される意志を「自由意志」と呼び、この自由意志が道徳の本質的な条件であるとする。つまりカントは、道徳も私たちの意識にあらわれてくる現象として捉えるのだ。
 

⏰:15/05/05 22:13 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#62 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
カントの認識論の妥当性

カントの文章はかなり込み入っていて読みにくいが、議論の軸はそれなりにはっきりしている。

人間の認識は、感性によって与えられる知覚をもとにして構成される。それゆえ感性によって捉えられない対象は認識できない。その一方で、理性は全体的な理念を描く。理念は、世界の全体性を経験的に説明するためには役立たないが、理性を実践的・道徳的に活用するための指針としての価値をもつ。

こうしてカントは、哲学の問いの重心を認識論から倫理学にぐっと移行させた。このことが哲学の歴史においてもつ意味は大きい。

ただ、カントの認識論に戻ってみると、そこに問題が無いわけではない。

どうすれば物自体が存在すると言えるのか?

本当に感性・悟性・理性の3能力で認識が構成されているのか?

カントは、物自体を感性によって捉えることはできないと言う。しかし人間の認識構造が感性→悟性→理性の形式をもっているのであれば、一体どのようにしてカント自身、物自体が存在することを知ったのだろうか?カントも人間である以上、感性によって得られたデータをもとに認識を作り上げるのだから、物自体が存在することは分からないことになるのではないだろうか?
 

⏰:15/05/05 22:15 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#63 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
カントは、認識は感性→悟性→理性と装置を介して作り上げられるとする。しかしニーチェの言うように、私たちには意識現象が与えられているだけなので、何が認識を作り上げているかに関しては推測することしかできない。カントは物自体と認識構造の両方をともに独断的に示しており、自分の経験にもとづいて記述しているわけではない。それゆえカントの議論は物語としての性格を帯びてしまっている。カントの影響を強く受けたフッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で次のように言っている。

カントは、彼の読者に対して、彼の遡行的方法の成果を直観的な概念に翻訳することを拒み、根源的で純粋に明証的な直観から出発して、真に明証的な一歩一歩を辿ることによって、前進的に理論を建設しようとする試象を拒んでいる。それゆえに彼の超越論的な諸概念は、原理的な理由からして決して明確に言いかえることができず、また決して、直接的な明証性を与える意味を形成するにいたりえないような、まったく独特の不明確さをもっている。

とはいえ、意識の内側における世界の現れに着目することが、世界それ自体を直接探求できると信じる態度に対して方法的な優位をもつというカントの直観が正当なのは確かだ。カント自身が証明したように、世界それ自体のありようを検証しようとする試みは、最終的に世界の全体像をめぐる解決不能なアンチノミーに行き着かざるをえないからだ。
 

⏰:15/05/05 22:18 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#64 [新参者◆HeyRIdy3RY]
>>37-41 唯心論
>>44-63 純粋理性批判(吟味)解説

⏰:15/05/05 22:21 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#65 [新参者◆HeyRIdy3RY]
流石に胃もたれしたわ

二律背反のアンチノミーは純粋理性批判の材料だったのかな?
二律背反自体は、純然たる意思に依って生まれる背反する意思みたいな事だったような

⏰:15/05/05 22:24 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#66 [新参者◆HeyRIdy3RY]
今日はもう無理だな
このままじゃ頭ぱっかーんするわ

⏰:15/05/05 22:26 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


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