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#52 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
アンチノミー

アンチノミーとは、ある命題とそれに反する命題が互角に成立してしまうために、どちらの命題が真であるとも決定できない状態のことを指している。

カントが示したアンチノミーは4つある。
(1)世界の空間的・時間的始まりについて
(2)世界の最小単位について
(3)自由について
(4)神について

ここでは最初の第一アンチノミーについて見てゆこう。これは宇宙の全体を捉えきることの不可能性を“論証”している有名な箇所だ。

正命題 世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。

反命題 世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。

世界に始まりはあるか?また終わりはあるか?これがここでの問題だ。
 

⏰:15/05/05 22:03 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#53 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
一見、どちらが正しい命題であるかを判断するのは難しいが、カントはそれらはともに等しい妥当性をもつという。つまり世界に始まりと終わりがあるという命題と、始まりも終わりもないという命題は互角に成立してしまうため、世界に始まりと終わりのどちらがあるのかを判断することはできない、とカントは論じる。

ここでのカントの証明法は独特のものだ。数学の背理法を掛け合わせている、というイメージで考えると何となく分かりやすいかもしれない。

初めに正命題(始まりと限界がある)を証明する。
 

⏰:15/05/05 22:04 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#54 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
仮に、世界が時間的な始まりをもたないとしてみよう。そのことは世界の開始点を決定することができず、無限に遡れることを意味する。

どこから来て、どこへ行くのか…

であれば、今この時点に到達するためには、無限に連なる世界の状態の系列が過ぎ去ってしまっているのでなければならない(いまの状態の以前、その以前、またその以前…)。しかし無限の系列が過ぎ去ってしまうということは、論理的に不可能だ。なぜなら過ぎ去ることができるなら無限とはいえないから。それゆえ世界には始まりがなければならない。同様に、世界を全体的なものとして捉えるためには、世界のプロセスが完結してしまっているのでなければならない。それゆえ世界は限界をもたなければならない。

以上が正命題だ。次に反命題(始まりと限界がない)を証明する。 

⏰:15/05/05 22:05 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#55 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
仮に、世界が時間的な始まりをもつとしてみよう。そうすると、世界が始まる以前には、何も存在していなかった空虚な時間があったはずだ。しかし無から世界が生じるはずはないから、世界が時間的な始まりをもつことはありえない。次に、世界に限界があるとしてみよう。この場合、世界はその外側の「空虚」によって限界づけられることになる。しかし空虚が何かを限界づけるなどということはありえないから、世界が限界をもつことはできない。

以上が反命題だ。このように、「世界には始まりがあり、限界がある」という命題と、「世界には始まりがなく、限界がない」という命題は、どちらも等しく成立する。したがって世界の始まりと限界を決定することは、原理的に不可能だ。
 

⏰:15/05/05 22:06 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#56 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
ビッグバンが宇宙の始まりなのでは?

こう聞くと「宇宙の始まりはビッグバンなのでは?」と思うひともいるはずだ(私も初めて読んだときにそう思った)。しかしビッグバン以前には、それを引き起こした原因があるはずだし、その原因についても原因があるはずだ…というように無限に続けることができる。

ウィキペディアの記事によると、現在の宇宙物理学でもビッグバン以前の状態に関する広い合意は成立していないらしい(専門ではないのでよく分からない)。

しかし、いかに科学が進歩しようとも、宇宙の絶対的な起源を発見することはできず、仮説の域を超えることはできない。これはカントがすでに証明してくれている。そうした起源を発見することは、私たちの認識構造ゆえに原理的に不可能なのだ。

経験認識がどれだけ深まっても、世界の完全性(世界の始まりは何か?終わりは何か?)については答えを与えることができない。それはそもそも絶対的な答えを持たない問いである。カントが言おうとしているのはそういうことだ。 

⏰:15/05/05 22:08 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#57 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
正命題と反命題、どちらを選ぶ?

以上、カントの第一アンチノミーについて確認したが、面白いのは、カントが正命題と反命題のどちらを選択するかの動機についても考えていることだ。カントは次のように言う。

正命題と反命題の対立を放置しておくことは、理性それ自体に対する信頼が打ち砕かれることにつながりかねない。とはいえ、両者に「対立を止めよ!」と説いてもあまり意味はない。この対立には必然性があるからだ。

そこで、ここではひとが正命題と反命題のどちらかを選ぶ動機について考えてみよう。そうすれば、この対立の内実をよりよく知ることができるはずだ。
 

⏰:15/05/05 22:09 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#58 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
正命題を選ぶひとは、世界の全体像を独断的に示そうとする傾向がある。また、正命題は通俗性をそなえているため、一般の人びとに理解されやすい。全体像を捉えられることの安心感も与えてくれる。

対して、反命題を選ぶひとは、世界の全体像を捉えることに対して否定的だ。また、反命題は正命題に対するアンチの立場を取る傾向にある。なので正命題よりも不人気だ。とはいえ反命題は、みずから独断的にならなければ(つまり、正命題の立場は間違っていると独断的に否定しなければ)、悟性にとってよい規準となる。

「世界の全体はこうなっている」とドンと示されると、いいね!と賛同する人もいれば、そんなの分かりっこない!とシニカルな態度を取るひともいる。正命題と反命題は、たとえ同じ妥当性を持っていても、どちらを選ぶかについては心理的な要因が大きく影響している。このカントの分析はなかなか鋭く、面白い。
 

⏰:15/05/05 22:10 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#59 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
認識の問題から道徳の問題へ

カントはアンチノミーによって、世界全体を捉えようとする試みは、形而上学に陥ってしまわざるをえないことを示した。カントは、理性が本当に向かうべきは、世界の全体を知ろうと試みることではなく、道徳の本質を規定することにあると考える。哲学の問いを「世界が何であるか」から「私たちにとって道徳とは何か」へと移行させたのだ。

カントはこの問題について、本書の次の主著『実践理性批判』で本格的に取り組んでいる。しかし本書ですでにこの点に触れているので、ここでも確認しておくことにしよう。

カントにいわせると、道徳の問いにおいては、人間の自由が重要な鍵となる。
 

⏰:15/05/05 22:11 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#60 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
カントいわく、人間の理性は自然の秩序とは異なる独自性をもつ。理性は思弁的(形式的・論理的思考を行う)側面をもつと同時に、実践的(道徳的)側面もまた備える。後者の側面に着目すると、理性はそれ自身が行為の原因としての役割を果たすものであり、これに自然の物理法則をそのまま適用することができないことが明らかとなる。

我々が、この同じ行為を理性に関して考察するならば、 と言っても、行為をその由ってきたる根原から説明するために思弁的理性に開して考察するのではなくて、〔実践)理性がみずから行為を産出する原因である限りにおいてのみ、かかる理性に関して考察するわけであるが、 約言すれば、我々がこの行為を実践的意味における理性と比較するならば、我々はここに自然秩序とはまったく類を異にする規則と秩序とを見出すのである。

人間は確かに一方では自然法則に従う存在である。しかしそれだけにとどまらない。人間は同時に、理性による自由をもつ存在でもある。そうカントは言うわけだ。
 

⏰:15/05/05 22:13 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


#61 [新参者◆HeyRIdy3RY]
 
カントは、自然法則によって規定されず、ただ理性の自由によってのみ規定される意志を「自由意志」と呼び、この自由意志が道徳の本質的な条件であるとする。つまりカントは、道徳も私たちの意識にあらわれてくる現象として捉えるのだ。
 

⏰:15/05/05 22:13 📱:P01B 🆔:w7hmHwj.


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