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#44 [新参者◆HeyRIdy3RY]
『純粋理性批判』は、17世紀ドイツの哲学者のイマヌエル・カント(1724年〜1804年)による著作だ。1781年に発表された。
カントの主著には、本書に加え、『実践理性批判』と『判断力批判』がある。それぞれの著作が哲学の主要テーマの真善美に対応しており、本書は「真」をテーマとする認識論だ。
批判とは「吟味」のこと
批判といっても、カントは別に理性を悪く言うわけではない。カントは本書で私たちの認識可能な領域の限界線をハッキリさせることで、普遍的な認識、つまり共通了解がどこまで可能であるかを明らかにしようとする。その意味で批判とは徹底的な「吟味」のことを指していると言っていい。
なぜ認識の構造を見て取ることが普遍的な認識につながるのだろうか?カントには次のような直観があった。もし人間に共通の認識構造を見出すことができれば、たとえ世界それ自体がどのようなものであろうとも、普遍的な認識が成立するはずだ、と。
カントの認識論は一般に、デカルトやスピノザの(大陸)合理論と、ロックとヒュームの(イギリス)経験論を統一して打ち立てられたとされる。こう並べられると合理論と経験論は対立しているように見えるが、ともに意識の内側を探求することによって普遍的な認識の可能性を探究したという点で深く共通している。カントはまさにこの点を合理論と経験論から受け継いだのだ。
:15/05/05 21:53
:P01B
:w7hmHwj.
#45 [新参者◆HeyRIdy3RY]
では具体的にどのような認識構造なのか?
以下、カントの議論を確認してゆくが、その前にまずカントの示す認識構造について確認しておこう。
カントによれば、人間の認識は、以下のような構造の「装置」を通じて作り上げられる(構成される)。
感性 → 悟性 → 理性
ただ、これだけでは何がなんだか分からないので、それぞれについて詳しく見てゆくことにしよう。
カントの議論を追っていくと、様々な概念がいくつも出てくる(物自体はまだいいほうで、カテゴリー、図式、判断力、先験的理念など、哲学史上カントしか使ったことのないような概念が山ほどある)。しかし全体の大枠をつかむためには不要なものもあるので、概念の多さに戸惑わないでほしい。本書の白眉は何と言っても「アンチノミー」に関する議論だ。悟性と理性の関係に着目して読むと、カントの熱さを感じられるはずだ。
:15/05/05 21:54
:P01B
:w7hmHwj.
#46 [新参者◆HeyRIdy3RY]
(1)感性:データを採取し、直観を供給する能力
カントは次のように言う。
私たちは感官を通じて対象を認識する。対象が心を触発することで、その対象は私たちに与えられる。その際に重要な働きを行うのが
感性だ。
感性は外部データを採取し、直観を私たちに与えてくる能力だ。感性を通じて、対象の色や形といったデータが、私たちに与えられる。感性がなければ、そもそも対象を知覚することも認識することもできない。
対象は、感性を介して我々に与えられる、また感性のみが我々に直観を給するのである。
また、感性は時間と空間を形式としてもつ。感性は、それらに規定された状態のもとで、外界のデータを取得するのだ。
:15/05/05 21:55
:P01B
:w7hmHwj.
#47 [新参者◆HeyRIdy3RY]
現象と「物自体」
対象はあくまで感性によって得られたデータを素材として認識される。
言い換えると、感性によって得られないものを認識することは不可能だ。つまり感性は、現象としての対象を認識するには適しているが、「物自体」を認識することには役立たない。
物自体に帰せられるような性質は、感性によっては決して我々に与えられ得ない。
物自体は確かに存在する。しかし人間に備わっている感性によっては捉えられない。なぜなら感性は時間と空間によって限定されているからだ。そうカントは主張する。
物自体=あるけど感性で捉えられないものとしておけばOKだ。
:15/05/05 21:56
:P01B
:w7hmHwj.
#48 [新参者◆HeyRIdy3RY]
(2)悟性=概念を把握する能力
しかし感性だけでは対象を認識するには至らない。感性はまとまりのないデータをバラバラに取得するだけなので、それらをギュッと束ねて総合する(結合する)必要があるからだ。その作業を行うのが、概念把握のための能力、すなわち
悟性だ。
対象は悟性(Verstand)によって考えられる、そして悟性から概念(Begriff)が生じるのである。
結合は表象能力の自発性の作用だからである。この自発性は、感性から区別せられるために、悟性と呼ばれねばならない。
我々はこのような悟性作用に、綜合という一般的な名称を与えようと思う。
:15/05/05 21:57
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:w7hmHwj.
#49 [新参者◆HeyRIdy3RY]
悟性には、感性と同様に形式がある。それがカテゴリー(純粋悟性概念)だ。
カテゴリーとは、感性によって与えられた直観をまとめ上げる、悟性の枠組みのことを指す。私たちはその枠組みを使って、対象を認識するのであり、この形式を通さなければ何も認識の対象とはなりえない。
ただし悟性はそれ自身独自の能力であり、感性や理性と上手くかみ合わない場合がある。
悟性は感性が与えてくる直観をもとに対象を認識する能力である。しかし、悟性はカテゴリーにしたがって独自に働いてしまう本性をもっている。
逸脱した悟性から私たちが得られるのは、単なる「仮象」だ。とはいえこの仮象は人間にとっては避けがたい。なぜならこれは理性の本性にもとづく錯覚だからだ。
:15/05/05 21:58
:P01B
:w7hmHwj.
#50 [新参者◆HeyRIdy3RY]
(3)理性=完全なものを構想する能力
カントは「理性」の本質を次のように規定する。
理性とは、原理から出発して、完全なもの(全体的なもの)を見いだそうとする認識能力のことを指す。
たとえば「宇宙はいつ始まったのか?宇宙の果てはあるのか?」など、全体性をめがける問いは理性から発せられる。
感性が時間と空間によって、悟性がカテゴリーによってそれぞれ規定されているように、理性もある枠組みによって規定されている。その枠組みをここでは「理念」と呼ぼう。これは経験に先立って理性を規定するものなので、「先験的理念」と呼ぶことができる。
:15/05/05 22:00
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:w7hmHwj.
#51 [新参者◆HeyRIdy3RY]
先験的理念には3つのものがある。主観(=私)の完全性、世界の完全性、「神」の完全性の3つがそれだ。
先験的理念は超越的であって一切の経験の限界を超出する、それだからこれらの理念に完全に合致するような対象は、経験においては決して現われ得ないのである。
私たちの意識経験が到達できる領域を“超え出て”しまっていること、これがカントのいう「超越的」の意味だ。
しかし私たちは悟性の生み出す仮象に欺かれて、理念があたかも実際の世界に適用可能だと考えてしまう。その結果、悟性はカテゴリーをエイヤエイヤと振り回し、経験可能な領域を超えてしまう。
たとえば理性は、世界は完全であるという理念をもつ。悟性は経験認識によって、その理念の正しさを証明しようとする。しかしこれは“原理的に”不可能な試みだ。
このことを証明しているのが、理性のアンチノミー(二律背反)だ。
:15/05/05 22:01
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:w7hmHwj.
#52 [新参者◆HeyRIdy3RY]
アンチノミー
アンチノミーとは、ある命題とそれに反する命題が互角に成立してしまうために、どちらの命題が真であるとも決定できない状態のことを指している。
カントが示したアンチノミーは4つある。
(1)世界の空間的・時間的始まりについて
(2)世界の最小単位について
(3)自由について
(4)神について
ここでは最初の第一アンチノミーについて見てゆこう。これは宇宙の全体を捉えきることの不可能性を“論証”している有名な箇所だ。
正命題 世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。
反命題 世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。
世界に始まりはあるか?また終わりはあるか?これがここでの問題だ。
:15/05/05 22:03
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:w7hmHwj.
#53 [新参者◆HeyRIdy3RY]
一見、どちらが正しい命題であるかを判断するのは難しいが、カントはそれらはともに等しい妥当性をもつという。つまり世界に始まりと終わりがあるという命題と、始まりも終わりもないという命題は互角に成立してしまうため、世界に始まりと終わりのどちらがあるのかを判断することはできない、とカントは論じる。
ここでのカントの証明法は独特のものだ。数学の背理法を掛け合わせている、というイメージで考えると何となく分かりやすいかもしれない。
初めに正命題(始まりと限界がある)を証明する。
:15/05/05 22:04
:P01B
:w7hmHwj.
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