待たせたな
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#41 [新参者◆HeyRIdy3RY]
唯心論は、物的なものなどは心の影にすぎず、存在するのは心のみであるという非常に勇敢なテーゼです。
この潮流はあまり私は詳しくはありませんが、実際に唯心論を表明したものはフランスの哲学者を除き、かなり少ないと思います。
日本語のWIKIの説明では、プラトン、カント、ロック、が含まれるとありますが、私はそうは思いません。
プラトンは洞窟の比ゆにもわかるように、われわれがみている感覚世界は、単に洞窟の中で火にてらされたものに過ぎず、外的世界そのもの(プラトン的形相)ではないといっていますし、カントは物自体というわれわれの認識とはなれた存在者があるという議論をしています。
ロックなどは、ガリレオ、デカルトから強い影響を受けていて、一次性質と二次性質の区別にみられるように、認識を離れた外的世界の実在にコミットしているのは明らかです。
唯心論は思うに、マルクスが対立するヘーゲルやそれ以前の観念論者の立場を嘲るときに都合よく利用されてきた蔑称であり、実際に、唯心論というものに積極的にコミットした人はかなり少ないと思われます。
:15/05/05 21:44
:P01B
:w7hmHwj.
#42 [新参者◆HeyRIdy3RY]
:15/05/05 21:44
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:w7hmHwj.
#43 [新参者◆HeyRIdy3RY]
コギト理論に近いよなって思ったけど、難しいなぁ・・・
消化不良になりそ・・・
:15/05/05 21:47
:P01B
:w7hmHwj.
#44 [新参者◆HeyRIdy3RY]
『純粋理性批判』は、17世紀ドイツの哲学者のイマヌエル・カント(1724年〜1804年)による著作だ。1781年に発表された。
カントの主著には、本書に加え、『実践理性批判』と『判断力批判』がある。それぞれの著作が哲学の主要テーマの真善美に対応しており、本書は「真」をテーマとする認識論だ。
批判とは「吟味」のこと
批判といっても、カントは別に理性を悪く言うわけではない。カントは本書で私たちの認識可能な領域の限界線をハッキリさせることで、普遍的な認識、つまり共通了解がどこまで可能であるかを明らかにしようとする。その意味で批判とは徹底的な「吟味」のことを指していると言っていい。
なぜ認識の構造を見て取ることが普遍的な認識につながるのだろうか?カントには次のような直観があった。もし人間に共通の認識構造を見出すことができれば、たとえ世界それ自体がどのようなものであろうとも、普遍的な認識が成立するはずだ、と。
カントの認識論は一般に、デカルトやスピノザの(大陸)合理論と、ロックとヒュームの(イギリス)経験論を統一して打ち立てられたとされる。こう並べられると合理論と経験論は対立しているように見えるが、ともに意識の内側を探求することによって普遍的な認識の可能性を探究したという点で深く共通している。カントはまさにこの点を合理論と経験論から受け継いだのだ。
:15/05/05 21:53
:P01B
:w7hmHwj.
#45 [新参者◆HeyRIdy3RY]
では具体的にどのような認識構造なのか?
以下、カントの議論を確認してゆくが、その前にまずカントの示す認識構造について確認しておこう。
カントによれば、人間の認識は、以下のような構造の「装置」を通じて作り上げられる(構成される)。
感性 → 悟性 → 理性
ただ、これだけでは何がなんだか分からないので、それぞれについて詳しく見てゆくことにしよう。
カントの議論を追っていくと、様々な概念がいくつも出てくる(物自体はまだいいほうで、カテゴリー、図式、判断力、先験的理念など、哲学史上カントしか使ったことのないような概念が山ほどある)。しかし全体の大枠をつかむためには不要なものもあるので、概念の多さに戸惑わないでほしい。本書の白眉は何と言っても「アンチノミー」に関する議論だ。悟性と理性の関係に着目して読むと、カントの熱さを感じられるはずだ。
:15/05/05 21:54
:P01B
:w7hmHwj.
#46 [新参者◆HeyRIdy3RY]
(1)感性:データを採取し、直観を供給する能力
カントは次のように言う。
私たちは感官を通じて対象を認識する。対象が心を触発することで、その対象は私たちに与えられる。その際に重要な働きを行うのが
感性だ。
感性は外部データを採取し、直観を私たちに与えてくる能力だ。感性を通じて、対象の色や形といったデータが、私たちに与えられる。感性がなければ、そもそも対象を知覚することも認識することもできない。
対象は、感性を介して我々に与えられる、また感性のみが我々に直観を給するのである。
また、感性は時間と空間を形式としてもつ。感性は、それらに規定された状態のもとで、外界のデータを取得するのだ。
:15/05/05 21:55
:P01B
:w7hmHwj.
#47 [新参者◆HeyRIdy3RY]
現象と「物自体」
対象はあくまで感性によって得られたデータを素材として認識される。
言い換えると、感性によって得られないものを認識することは不可能だ。つまり感性は、現象としての対象を認識するには適しているが、「物自体」を認識することには役立たない。
物自体に帰せられるような性質は、感性によっては決して我々に与えられ得ない。
物自体は確かに存在する。しかし人間に備わっている感性によっては捉えられない。なぜなら感性は時間と空間によって限定されているからだ。そうカントは主張する。
物自体=あるけど感性で捉えられないものとしておけばOKだ。
:15/05/05 21:56
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:w7hmHwj.
#48 [新参者◆HeyRIdy3RY]
(2)悟性=概念を把握する能力
しかし感性だけでは対象を認識するには至らない。感性はまとまりのないデータをバラバラに取得するだけなので、それらをギュッと束ねて総合する(結合する)必要があるからだ。その作業を行うのが、概念把握のための能力、すなわち
悟性だ。
対象は悟性(Verstand)によって考えられる、そして悟性から概念(Begriff)が生じるのである。
結合は表象能力の自発性の作用だからである。この自発性は、感性から区別せられるために、悟性と呼ばれねばならない。
我々はこのような悟性作用に、綜合という一般的な名称を与えようと思う。
:15/05/05 21:57
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:w7hmHwj.
#49 [新参者◆HeyRIdy3RY]
悟性には、感性と同様に形式がある。それがカテゴリー(純粋悟性概念)だ。
カテゴリーとは、感性によって与えられた直観をまとめ上げる、悟性の枠組みのことを指す。私たちはその枠組みを使って、対象を認識するのであり、この形式を通さなければ何も認識の対象とはなりえない。
ただし悟性はそれ自身独自の能力であり、感性や理性と上手くかみ合わない場合がある。
悟性は感性が与えてくる直観をもとに対象を認識する能力である。しかし、悟性はカテゴリーにしたがって独自に働いてしまう本性をもっている。
逸脱した悟性から私たちが得られるのは、単なる「仮象」だ。とはいえこの仮象は人間にとっては避けがたい。なぜならこれは理性の本性にもとづく錯覚だからだ。
:15/05/05 21:58
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:w7hmHwj.
#50 [新参者◆HeyRIdy3RY]
(3)理性=完全なものを構想する能力
カントは「理性」の本質を次のように規定する。
理性とは、原理から出発して、完全なもの(全体的なもの)を見いだそうとする認識能力のことを指す。
たとえば「宇宙はいつ始まったのか?宇宙の果てはあるのか?」など、全体性をめがける問いは理性から発せられる。
感性が時間と空間によって、悟性がカテゴリーによってそれぞれ規定されているように、理性もある枠組みによって規定されている。その枠組みをここでは「理念」と呼ぼう。これは経験に先立って理性を規定するものなので、「先験的理念」と呼ぶことができる。
:15/05/05 22:00
:P01B
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